パンドラの箱を開けたようにロサンゼルスで鬱病になった当時の記憶が脳内をかけめぐっています。
そういやこんなこと言われたなぁー。
「じゃぁ病気になったら責任とれや!」とおもいつつ意地になって業務に励んだものです。
ふとした一言で終わる人生もあるんだよ
昔ながらの堅物ってひとだったし、アメリカで事業を起こしてずっとひとり事務所でやってきてたので、誰かと顔をあわせて働くといったことがわからなった側面もあるんだとおもいます。
鬱病になってからというもの上司の表情は一変し、あきらかに僕との距離をとりはじめました。ロサンゼルスから日本に帰国する空港での見送りではじめて「申し訳なかった」といった謝罪を口にしたものの、やっぱり僕としては許せない部分があるのも事実です。
病気になった原因はいろんな要素が絡み合っているものの、そのひとつにあの人の存在があったのは間違いないでしょう。
憎くて仕方がない日々
日本に帰国してからは2回ほど顔を合わせる機会がありました。
ぼくは帰国してすぐに2ヶ月の休職をし、その休みが明けてしばらくしたとき。
どうやらアメリカからの出張で日本に来たようです。
1回目の遭遇
社内に顔をみせ社長室にむかい、そのあと通路をとおるときにみんなと挨拶をしていきます。ぼくにも「よぉ!元気か?」と挨拶してきたものの、顔色をうかがってるのは明らかでした。
もうそのときには「この人とは一生会いたくない!」
そういった気持ちが僕のなかで止められないほどに大きくなっていました。
たしか会社にもそういったことを話したことはあるけれど、業務の内容上「そりゃムリだろ」と言われたのを思い出します。
たしかに当時はアメリカが乳製品の供給ではものすごく大切な国で、この人がそのアメリカの業務の大部分を担ってたわけです。現地にはほかに誰もスタッフがいなかったので。
2回目の遭遇
2回目もおなじような状況で、その数年後かな?
ぼくは今度は1年半の休職をおえて1日3〜5時間だけ出社するリハビリ出社をやっていました。
そのときに前回同様にみんなが挨拶をするなか、ぼくらは不自然に目を合わすだけ。
というよりも、ぼくは顔も見たくなかったので、挨拶することなく、ひたすら目の前のパソコンをみつづけていました。
だから直接の接触はなし。
それから現在にいたるまで、話したことも、みかけたこともありません。
ぼくは病気がもとで退職をしてるので、あたりまえといえば当たりまえでしょう。
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彼も孤独だったのだろう
あれから数年がたったいま思うのは、あの人もあのひとなりにストレスが溜まってたり、一匹狼気どりなとこがあったり、ものすごい寂しさを感じてるんじゃないかなぁと。
一人っ子の娘さんはアメリカで生まれ現地の学校でそだったものの、日本は多重国籍を認めてないので、18歳だか20歳やらでどっちの国籍にするかを選ばなきゃいけないんですよね。
このロサンゼルス時代の上司はアメリカにずっと滞在できる永住権をもってたので、娘さんは日本国籍をとるか、アメリカ国籍をとるかを決めなきゃいけなかったわけです。
アメリカで生まれ育ったから日本語よりも英語が堪能だし、本人も英語のほうがラクにしゃべるって言ってたし、てっきりアメリカ国籍を選ぶかとおもいきや、なんと日本国籍を取得。そしてロサンザルスの親元をはなれ、ひとり日本で暮らしているんです。
これぞ生きる醍醐味
なにが言いたいのかわかんなくなってきましたが、最終的にはここにいきつきます。
やっぱり人生いろいろ!
だからこそ楽しいし、ときには残酷だし、病気になっていま一番おもうのは、楽しまなきゃ損損。人生は楽しんだもの勝ちなのです…笑。